しがない社畜の話

公僕社畜ちゃんのお話です

悠達の備忘録 その9

こんにちは。いよいよ梅雨明けということで夏本番の様相を呈してきましたね。今回のテーマは「他の人がどう思うかについてどれだけ世の中の人は考えているのか。3人で歩く時の話」です。何を言ってるのかさっぱりわかりませんね。ただとても重要なことなのではないのかと思うので一つお付き合いくださいませ。


今回のテーマに当たって一つ例え話があります。普段は仲の良い友達2人と自分の、3人で歩いていたとします。その時友達2人は仲良く最近流行りのタピオカミルクティーの話をしています。ですが自分は興味ないし飲んだこともありません。当然話には加われず一人後ろか2人のあとをついていくだけです。


これは一つの例え話ですが皆さんは同じような経験あるでしょうか?私は幾度となくありました。ただ私自身そういうことには無頓着でたとえ会話できずに後ろからついていくことになっても平気なタイプでした。しかしそうではない人も中にはいるということに気付かされました。とある私の友人Pさんが何となく言った言葉があります。「3人とか奇数人数で遊びに行くのが苦手。だって2人と1人とかになって自分がその1人になったり1人になってしまう人のことを考えるとわざわざ奇数人数では遊びに行かない」。今まで20年余り生きてきましたが考えたことすらありませんでした。なるほどそこまで考える必要があるのかとすら思いました。Pはいつも大体一人で集団の後ろにくっついて歩いている私に気を使ってくれたのかもしれません。実際Pは友達受けも良かったですし少なくとも私よりは人付き合いというものを苦手にしている印象はありませんでした。もちろんこの発言以外にも幾つか要因があるため苦手にしていないように見えたのですがそれはここでは割愛します。


とにかく私にとってそのPの発言というものが新鮮であり、周りの人のことをより考えるきっかけになりました。一つ一つの言動をする前に必ず、周りの人はどう考えるかな?今はこういうことを言っていいタイミングだろうか?といったことを考えるようになりました。正直そんな細かいところまで気を配る必要はないのではないか、そんなところまで見ていたらこちらが疲れるだろうというご指摘はもっともだと思います。相手のことばかり考えて自分の主張ができないのではないかとも言われるでしょう。それでもこの視点を持ち始めてからはいい意味で空気をしっかり読める(それまで全く読めていなかったわけではないと思いますが)、そして何よりも「自分ならもっとこういう言い方するかな」や「少なくともそういう言い方ややり方をされたら自分は嫌だからしないようにしよう」と思えるようになったことは一つ成長できていることだと感じています。この視点はとても重要だと私は思います。最近至る場所で周りの人のことをまるで考えていない、または相手がどう思うのか全く考えずに言動をする人が多いなと感じる中で是非このことをテーマとして書きたいなと思いました。


最後に、最近私がファンになった、とあるネット配信者の方が仰っていたことです。「親しき中だからこそ礼儀あり」。この人のファンになって良かったなと心底思える一言でした。こういった当たり前のことがいつのまにかできなくなってしまうのはとても悲しいことだと思います。だからこそいつまでも周りの人がどう思うか、相手はどう思うのかという視点を忘れずに言動していきたいものです。


次回はこれまでの重たい話ではなく私の趣味の一つである高校野球の話をテーマにしたいなと考えています。ではまた次回に

悠達の備忘録 その10

こんにちは。この半年間注力してきた試験がひと段落したこともあり、書きたい、発信したいことが山ほどあって困っています。それほど様々なことを考えるきっかけになった半年間であり自分を見つめ直す良い期間だったのかもしれませんね。ということで前回予告したテーマを変更して今回はお送り致します。


今日のテーマは「『昭和』という一言で片付けていいのか」というものです。

ここ最近はパワハラ、セクハラ、モラハラなど色々なハラスメントが表沙汰になり問題視されるような世の中になりましたね。加えてSNSで不適切発言や不謹慎発言をしようものなら即炎上、面白がってメディアも過剰報道という流れをよく目にします。私が家族とこのようなニュースを一緒に見ていた時、ふと父が「前だったらこんなにすぐ取り上げられることなんてなかったしこれはこれで難しい面もあるよね」と言っていました。確かにその通りだと私も思いました。一つ一つの発言すべてを揚げ足取りような形で取り上げるのは単にメディアの数字稼ぎでしかないと個人的には思います。ですがここで重要となってくるのは先に挙げたハラスメントの類が「昭和だったらこんなの当たり前だ」とか「いちいちこんなことにまで気にしていたら指導なんてできない」という言説を持って語られてしまう危険性だと私個人は思っています。


私自身もこのような種類の言葉をもって周りからの助けがほとんど皆無だったと言っていいと思います(ほとんど皆無という表現にしたのは手を差し伸べてくれた方もいらっしゃったからです、詳しくは前回までの記述をご覧ください)。では本当に「昭和だったら」とか「指導ができない」などの言葉だけで済ませてしまって良いのでしょうか?


残念なことに現在どの会社でもいわゆる中堅どころの世代というものは昭和世代の影響を受けています。これは年齢的なことはもちろん、その上司が昭和の世代であり昭和的指導を受けてきた影響だと考えています。つまり年齢が若くとも教わった相手が昭和的人間ならばその人もその影響は多少なりとも受けているはずだと考えます。少々暴論のような気もしますが約半年まがいなりにも社会人生活を送ってみての素直な感想です。「自分はこういう指導を受けてきたから下にも当たり前にそれをやっても大丈夫だろう」、「これくらい当たり前でしょ」といった感覚なのでしょう。それを「それが昭和だから仕方ない」という一言で片付けられるほど簡単なことではないということは先のハラスメント報道を見れば明らかだと思います。


正直私は「何で自ら命を絶つのだろうか」と思っていました。ですが今ならその気持ちが分かります(本当は分かってはいけないのかもしれませんが)。後輩を指導する際の自分の一言一言がもしかしたらその人の命に関わることなのかもしれない。それだけの苦痛を与えてしまっているのかもしれないと一体どれほどの方が理解できているでしょうか?自ら命を断とう、それほどその人の中では重大な問題となってしまっている段階で既に「昭和だから」の一言では片付けられない上にそれはもう「指導」の域を超えているのではないでしょうか?前回のテーマでも話題にしましたが今一度「自分の言ったこと、やったことが周りにどういう影響を与えるのか」について深く考えて言動をする人が余りにも減ってきているのでないか、そう考えずにはいられません。前回テーマとして取り上げた友人Pの一言があってから私は特に気にするようになりました。


冗談の通じないやつだ、頭の固いやつだ、人間として面白くない。私は別にこう思われてもいいと思います。そんなことより自分の言動に責任を持つことや冗談でも言っていいことと悪いことの線引きをしっかりすることの方がよっぽど大事だと思います。「昭和だから」「指導の一環」これらの言葉で全て片付けられる、見過ごせるような時代というのはとうに終わったのではないかと思いますし私自身これからも細心の注意を払って何かを指導したりアドバイスをしたりできるような人でありたいなと思っています。


次回こそ高校野球書きます

悠達の備忘録 その8

転職面接を受けてきました。予想以上に圧迫でボコボコにされ泣きました。いろんなことを思い出してしまい突発的に気持ちを落ち着かせる薬も服用しました。


さて前回は「もったいない」という言葉についてお話を始めたばかりでしたね。今回はその後半戦です。


就職活動において某県のマスコミを受験しました(あえてぼかしておきます)。その時面接をした面接官とたまたま出身大学が同じだったようで「Y大学ならなんでうちの県に来ようと思ったの?すごくもったいないと思うよ、東京でいくらでも内定もらえるでしょ?」と言われました。正直意味が分かりませんでした。こちらとしては必死に(当時はマスコミが第一志望と考えていて全国飛び回っていました)人生を決める覚悟で面接を受けに行ったのに肩透かしのようなことを言われ頭にきました。当然そことは縁がなくあっさり落とされました。本当に「もったいない」と思っているなら他に言い方ややり方があったのではないか。そこから私は何も知らない人に「もったいない」と言われることに嫌悪感を覚えずにはいられません。先日も職場の上司と面談した際にも前回お示ししたようにまた「もったいない」と言われました。何が「もったいない」のでしょうか?本当に「もったいない」と思っているなら正直職場環境、会社風土を変えて欲しいと思いますし「もったいない」と言う前に採用して欲しいです。大袈裟に聞こえるのは当たり前かもしれません。ですが僕にとってはたとえ1ヶ月であっても生きる死ぬかずっと悩みながら過ごしたからこそ根拠の全く見えない、何をもって言っているのかわからない「もったいない」という言葉だけで片付けたくないのです。だから私は人に対して「もったいない」という言葉は絶対言いません。別の言葉を探します、選びます。


次回のテーマは「他の人がどう思うかについてどれだけ世の中の人は考えているのか。3人で歩く時の話」です。

悠達の備忘録 その7

みなさんこんにちは。

前回から間が空いてしまいました。前回までは勤め始めてからの変遷をたどって参りましたが今回はその後について少しだけ述べるに加えて、とある一つの言葉について考察を加えたいと思います。


さて、前回までは休職に至るまでのお話でした。休職に至った後はとある試験に向けた勉強を本格的に開始しながら体調を整え、まずは普通の生活を送れるようになることが目標でした。最初の1,2週間くらいは仕事についてまだ考えてしまいどうにかなってしまいそうでした。ですが徐々に気力体力ともに復活してきました。ここで自分にとって幸運だったことは試験に合格するという明確な目標があった中で生活を送れたことだと思います。何もしないでぼーっと過ごすというのは休み始めた当初は楽でした。ただ何もしない時間というものはそれはそれで苦痛に感じる部分や焦りといったものもあったので明確な目標を持って過ごせたからこそ徐々にではありますが色々なものが回復してきたのだと思います。


そんなこんなで試験関係が先月6月まで続いていた中、職場でも変化がありました。大幅な人事異動です。その中でトップが変わり面談をすることになりました。そこで言われた言葉について後半では私なりの見解と職場に馴染めなかった根本的原因を探りたいと思います。


それは「もったいない」という言葉です。「今ここで簡単に辞めてしまうのは君の力からしてももったいないしうちの会社としても損失だ。」もしこれを読んでいるあなたがこの言葉をかけられたらどう思うでしょうか?純粋に評価されているのだなと思う人もいるでしょう。しかし私にとってこの「もったいない」という言葉こそ腑に落ちない、いわば理解できない言葉なのです。


他人にもったいないという時どのような文脈で使うのが適切なのか非常に難しいと感じます。それは私自身が、私の「人間性」を理解した上で本気で「もったいない」と言ってくださる方ならまだしも、「経歴」や「数字」だけを見た人が「もったいない」と言ってくることにひどく抵抗感を覚えるからです。思い返してみると「もったいない」と言われたのは高校時代からでした。大学受験時に担任の先生から「悠達の力ならX大学も行けるのに本当にいいのか?もったいないと思うぞ。」と言われました。この時は特に何とも思いませんでした。ですがこれが決定的に意識されるようになったのは就職活動の時でした。


後半へ

悠達の備忘録 その6

こんばんは。早いものでもう6回目ですね。

前回は2018年12月まで書かせていただきました。今回は1月の攻防をお話ししたいと思います。


これまでの通り12月末の時点で心は壊れかけていました。大げさだと思われる方もいらっしゃるとは思いますが毎日が生きるか死ぬでした。そんな状況でよく1ヶ月も仕事に行ったと思います。

ただ流石にもうこのままだとおかしくなると自分自身思っていたので年明けには主治医の先生と相談して長期間休職をしようということになりました。この時私は休むことを会社に伝える前両親には何も伝えませんでした。これまで通り朝会社に行き診断書と自分の意思を伝えて、午後には帰宅していました。帰宅後事の全容を話しいわば事後報告という形で長い長い休職期間が始まっていきました。

どうして事後報告にしたのか。その理由は簡単です。事前に話していれば確実に止められていたと思ったからです。まだ頭がギリギリ働いていたからこそなし得たことだったと思います。

さて、次回から休職期間編に入っていきます。心と身体がボロボロになってしまった状態からどう再スタートを切れる状態に戻っていくのか。この半年間何をして過ごしていたかに触れるという事で今後の私の行く末についてもお話しできると思っております。


ではまた次回の備忘録でお会いしましょう。

悠達の備忘録 その5

更新が久しぶりになりました。

少し現実の方がバタバタしていたのでかなり間が空いてしまいましたが引き続き10月から12月まで前回の続きを述べたいと思います。


体の調子がおかしくなり始めたのが11月上旬。そこから心が壊れるまでそう長くはありませんでした。その人がいるだけで嫌悪感はたまらないものでしたし、周りは見て見ぬ振り。誰も助けてくれなければ声もかけてくれません。当然職場に行くのが憂鬱になり恐怖になりました。


健全な時はそんなことないだろうと思っていましたが初めて線路に飛び込めば楽になれるだろうにと思い、その辺の道端で倒れれば誰か助けてくれて入院できるだろうにと思ってしまいました。ここまで来たらもう限界でした。


11月の最終週、月曜日から水曜日までひとまず上司に相談し休むことになりました。ただそんなもので治るなら最初から困らなかったはずです。休み明けの木曜日、通勤途中の電車で吐き気が止まらず途中下車。もう無理だと泣きながら母親に電話しました。その日は何とか職場に行きましたが正直何をしていたかは覚えていません。一つだけ覚えているとすればあの甲さんが私に謝罪してきました。今から考えてみると結局は形だけの謝罪でしたがその当時の私にとっては驚きそのものでした。これで少しは良くなるのかなとも思っていましたがそう簡単ではありませんでした。


一度壊れてしまった歯車は元に戻りません。心も体も良くなるどころかむしろどんどん悪化していきました。


そんな時に唯一私に救いの手を差し伸べてくださる方がいらっしゃいました。その人(乙さんとでもしておきます。)は見るに見かねた私の状況に対して病院を紹介してくださいました。普通は初診の予約が中々取れないそうですが乙さんのご尽力もあり12月の初旬に初めて病院にかかりました。


当然ですが「うつ病」と診断されました。それでもそこから年末までの1か月、正直生きているのか死んでいるのか分からないような状況で薬を服用しながら勤務していました。この12月は何をしていたのか、仕事はもちろん休日でさえ思い出すことができません。恐らく頭の中がごちゃごちゃになって働いている状況で日々を過ごしていたからだと思います。


この頃から徐々に自身の行く末というものを考え始めました。ここに居て自分の思い描いているようになれるのか、そもそも生きていられるのかと。その上でここで無くとも良いのではないか、むしろここにいる理由は何なのか自問自答の日々でした。うつ病の薬と睡眠導入剤を服用していても一向に調子は良くなりません。何とか年末を迎えることが出来ましたが正直もうボロボロでした。


次に続く

悠達の備忘録 その4

こんにちは、悠達です。


この回を書いている日は統一地方選挙がありました。私も投票に行ってきました。皆さんは行きましたでしょうか?


さて、今回は10月から12月について述べたいと思います。

9月まではいわゆる「見習い」として雇われていましたが10月からは正式に辞令が出される形になっていました。そして私も例に漏れず辞令を受け、3つの業務を半年間経験するローテーション期間に入りました。

まず経験することになったのが保険や投資信託を扱う業務です。


元々私自身興味があり金融機関でやりたい業務が相続業務等でしたのでその一環としてまずは上のような業務になりました。


覚えることは当然多く大変は大変でしたが実際にお客さんのところへ行ったり話を聞いたりすると面白いと感じる部分はありました。


ただそこには大きな地雷が潜んでいました。


当時異動が出たばかりで、それまで当該業務において私の所属する支店で一番のベテランの方が出てしまいました。そこでとある方(以下甲さんとでもしておきましょうか)が一番年齢的にトップになりました。それまではストッパー的な感じでいた、いわば目の上のたんこぶ的な人がいなくなってか甲さんはのびのびし始めました。新しく来た人の悪口を言うために態々社内電話を使う、業務中に寝る等々ここで挙げられない程でした。しかも私自身その人と馬が合う感じは全くしなく、事実最悪でした。加えて私の席の目の前です。最初のうちは何とか甲さんの逆鱗に触れることなくやり過ごしていましたが遂にやってしまいました。


私がミスをし始めると明らかに他の人にするそれとは違う態度で私を叱責し始めました。当然仕事上でのミスですので私自身に悪い点、至らない点があったのは重々承知していましたがそれでももう少し言い方がどうにかならないのかと思い続けていました。何とかミスを取り返そうと必死になって取り組みますがやはり心の何処かで恐怖心が生まれていたのでしょう。何をやっても大体足りなかったりミスをしたりして怒鳴られていました、時にはお客さんのいる前で。


それでも「何処にでもあるようなことだよな…」と自分を騙しながら何とかかんとかやっていました。ですが次第に身体がおかしくなってきました。まず初めに朝早く目が覚めるようになってきました。普段は6時に起床していましたが4時や5時、時には夜中の2時に目が覚めることが頻繁に起こるようになり始めました。次に食欲の減退です。朝ごはんが喉を通らなくなり昼ごはんも食べられなくなり唯一夕ごはんだけが食べられる状況でした。そして通勤時の吐き気や胃のむかつき、動悸まで起こり始めました。


流石にここまで来ると自分でも焦りました。今までに経験のしたことがない事象ばかりでしたのでどう対処して良いか分からずひとまずトイレの個室に駆け込んで落ち着くのを待つ日々でした。


(その5に続く)