しがない社畜の話

公僕社畜ちゃんのお話です

悠達の備忘録 その10

こんにちは。この半年間注力してきた試験がひと段落したこともあり、書きたい、発信したいことが山ほどあって困っています。それほど様々なことを考えるきっかけになった半年間であり自分を見つめ直す良い期間だったのかもしれませんね。ということで前回予告したテーマを変更して今回はお送り致します。


今日のテーマは「『昭和』という一言で片付けていいのか」というものです。

ここ最近はパワハラ、セクハラ、モラハラなど色々なハラスメントが表沙汰になり問題視されるような世の中になりましたね。加えてSNSで不適切発言や不謹慎発言をしようものなら即炎上、面白がってメディアも過剰報道という流れをよく目にします。私が家族とこのようなニュースを一緒に見ていた時、ふと父が「前だったらこんなにすぐ取り上げられることなんてなかったしこれはこれで難しい面もあるよね」と言っていました。確かにその通りだと私も思いました。一つ一つの発言すべてを揚げ足取りような形で取り上げるのは単にメディアの数字稼ぎでしかないと個人的には思います。ですがここで重要となってくるのは先に挙げたハラスメントの類が「昭和だったらこんなの当たり前だ」とか「いちいちこんなことにまで気にしていたら指導なんてできない」という言説を持って語られてしまう危険性だと私個人は思っています。


私自身もこのような種類の言葉をもって周りからの助けがほとんど皆無だったと言っていいと思います(ほとんど皆無という表現にしたのは手を差し伸べてくれた方もいらっしゃったからです、詳しくは前回までの記述をご覧ください)。では本当に「昭和だったら」とか「指導ができない」などの言葉だけで済ませてしまって良いのでしょうか?


残念なことに現在どの会社でもいわゆる中堅どころの世代というものは昭和世代の影響を受けています。これは年齢的なことはもちろん、その上司が昭和の世代であり昭和的指導を受けてきた影響だと考えています。つまり年齢が若くとも教わった相手が昭和的人間ならばその人もその影響は多少なりとも受けているはずだと考えます。少々暴論のような気もしますが約半年まがいなりにも社会人生活を送ってみての素直な感想です。「自分はこういう指導を受けてきたから下にも当たり前にそれをやっても大丈夫だろう」、「これくらい当たり前でしょ」といった感覚なのでしょう。それを「それが昭和だから仕方ない」という一言で片付けられるほど簡単なことではないということは先のハラスメント報道を見れば明らかだと思います。


正直私は「何で自ら命を絶つのだろうか」と思っていました。ですが今ならその気持ちが分かります(本当は分かってはいけないのかもしれませんが)。後輩を指導する際の自分の一言一言がもしかしたらその人の命に関わることなのかもしれない。それだけの苦痛を与えてしまっているのかもしれないと一体どれほどの方が理解できているでしょうか?自ら命を断とう、それほどその人の中では重大な問題となってしまっている段階で既に「昭和だから」の一言では片付けられない上にそれはもう「指導」の域を超えているのではないでしょうか?前回のテーマでも話題にしましたが今一度「自分の言ったこと、やったことが周りにどういう影響を与えるのか」について深く考えて言動をする人が余りにも減ってきているのでないか、そう考えずにはいられません。前回テーマとして取り上げた友人Pの一言があってから私は特に気にするようになりました。


冗談の通じないやつだ、頭の固いやつだ、人間として面白くない。私は別にこう思われてもいいと思います。そんなことより自分の言動に責任を持つことや冗談でも言っていいことと悪いことの線引きをしっかりすることの方がよっぽど大事だと思います。「昭和だから」「指導の一環」これらの言葉で全て片付けられる、見過ごせるような時代というのはとうに終わったのではないかと思いますし私自身これからも細心の注意を払って何かを指導したりアドバイスをしたりできるような人でありたいなと思っています。


次回こそ高校野球書きます